「見ざる・聞かざる・言わざる」のお話

明けましておめでとうございます。2016年が始まりました。今年は例年になく暖かで穏やかなお正月でした。お正月の天気のように今年1年穏やかに過ごしたいものです。

さて、今年は申年です。正式には、十干と十二支を組み合わせて丙申(ひのえさる)年です。申年ということでサルを使ったことわざ、「見ざる・聞かざる・言わざる」のお話をしたいと思います。
このことわざは、他人の欠点や過ちは、見ない、聞かない、言わない、とするのが良い方法である、という意味です。
いい噂や他人の幸福というのはなかなか広がりません。

しかし、悪い噂や他人の不幸話などはあっという間に広がります。
TVの情報番組などで報道される芸能人情報では、結婚などの幸せな話よりも離婚協議泥沼化といった不幸話の方が視聴率はいいそうです。他人の不幸を楽しんでいる人がどんなに多いかということです。

思い返してみてください。嫌いな人が評価されていると嫌な気持ちになり、逆にその人が不幸な目にあっていたら、しめしめと思う。そんな経験はなかったでしょうか。
私を含め、人間には大なり小なり程度の差こそあれそうゆう部分を持っていると思います。

「見ざる・聞かざる」の2つは情報として入ってくるものであるので、どうしようもない部分があります。しかし、「言わざる」は自分から言葉として発せなければいいのです。嫌いな人が不幸な目にあっていても、心の中だけに留めておき「言わざる」でいれば悪口を言わなくてすみます。他人の悪口を言うことは自分の評価を下げてしまう行為です。

申年が始まるにあたり、「見猿・聞か猿・言わ猿」の三猿、特に『言わざる』を意識した年にしてみてはどうでしょうか?
本年も皆様にとりまして素晴らしい1年になりますようお祈り致します。

合掌

長勝寺本堂と赤穂大石内蔵助邸宅

当山は現在の地に本堂が建立される前は旧小江村(現在の小豆郡土庄町小江)と旧長浜村(同町長浜)の間にある大久保という地区に建っていました。しかし、本堂が火事により焼失してしまったため、現在の地に当寺本堂が建立され、その当時の棟札が現存しています。そこには 『元禄15年壬午歴 2月吉祥日』 と記されています。元禄15年(1702年)2月に棟上げを行っているという記録であります。

元禄15年に起こった出来事といえば赤穂浪士の討ち入り(12月)が有名です。
松の廊下刀傷事件(元禄14年3月14日)が起こり、浅野内匠頭は即日切腹・赤穂藩はお家断絶という厳しい処分が下りました。それ以後の大石良雄(大石内蔵助)はかつての「昼行燈」ぶりが信じられないような働きぶりをみせたといいます。紙くず同然になるであろう赤穂藩の藩札の交換に応じて経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめました。この時、藩札の交換や分配金を払うために資金が必要だったのだろうと思います。自身の邸宅を売ることでその資金の足しにと考えたのかもしれません。

その時当寺の本堂建立に尽力されたのが、大石内蔵助の御用人をされていた久右衛門氏と長浜村の伊三郎氏の両氏でした。寺伝によると、久右衛門氏が大石内蔵助と当寺の架け橋となり大石邸を購入し、伊三郎氏が船を出し大石邸の材木などを赤穂から小豆島まで運搬し、本堂を建立したと記されています。
当寺の本堂が火事により焼失し、本堂再建を考えていた時期と、浅野長矩が江戸城で吉良義央に対して刀傷に及んだ事件以後、大石内蔵助が故郷赤穂を離れるまでの時期が一致したことと、更には、檀家が大石内蔵助の御用人をしていたというご縁があり、今日の本堂が完成しています。
また、その時に大石内蔵助が愛用していた茶釜と屏風も当山に奉納されています。当山長勝寺が赤穂浪士大石内蔵助ゆかりの寺と称する由縁であります。