当山は現在の地に本堂が建立される前は旧小江村(現在の小豆郡土庄町小江)と旧長浜村(同町長浜)の間にある大久保という地区に建っていました。しかし、本堂が火事により焼失してしまったため、現在の地に当寺本堂が建立され、その当時の棟札が現存しています。そこには 『元禄15年壬午歴 2月吉祥日』 と記されています。元禄15年(1702年)2月に棟上げを行っているという記録であります。
元禄15年に起こった出来事といえば赤穂浪士の討ち入り(12月)が有名です。
松の廊下刀傷事件(元禄14年3月14日)が起こり、浅野内匠頭は即日切腹・赤穂藩はお家断絶という厳しい処分が下りました。それ以後の大石良雄(大石内蔵助)はかつての「昼行燈」ぶりが信じられないような働きぶりをみせたといいます。紙くず同然になるであろう赤穂藩の藩札の交換に応じて経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめました。この時、藩札の交換や分配金を払うために資金が必要だったのだろうと思います。自身の邸宅を売ることでその資金の足しにと考えたのかもしれません。
その時当寺の本堂建立に尽力されたのが、大石内蔵助の御用人をされていた久右衛門氏と長浜村の伊三郎氏の両氏でした。寺伝によると、久右衛門氏が大石内蔵助と当寺の架け橋となり大石邸を購入し、伊三郎氏が船を出し大石邸の材木などを赤穂から小豆島まで運搬し、本堂を建立したと記されています。
当寺の本堂が火事により焼失し、本堂再建を考えていた時期と、浅野長矩が江戸城で吉良義央に対して刀傷に及んだ事件以後、大石内蔵助が故郷赤穂を離れるまでの時期が一致したことと、更には、檀家が大石内蔵助の御用人をしていたというご縁があり、今日の本堂が完成しています。
また、その時に大石内蔵助が愛用していた茶釜と屏風も当山に奉納されています。当山長勝寺が赤穂浪士大石内蔵助ゆかりの寺と称する由縁であります。